GR III を買った理由
私は「カメラが趣味である」と公言しつつも、最近はデジタル一眼レフの中でもコンパクトなほうのモデルであるPENTAX K-3でさえ持ち出すのが億劫になっていた。iPhoneが、そのサイズと手軽さに比して、バカバカしくなるほど綺麗な写真を撮れることもそれに拍車をかけていた。「iPhoneでいいじゃん」というヤツだ。
小さくて高性能なカメラが欲しかった
iPhoneで撮れる写真が綺麗だとはいいつつ、やはり限界がある。
「あ、これ一眼レフを持ってきていれば綺麗に撮れただろうなぁ」
そう思って、はなからiPhoneで写真を撮るのを諦めるような場面に遭遇したのは、一度や二度ではない。でも、一眼レフを持っているのは「写真を撮るぞ」と意気込んでいるときだけなのだ。それ以外のときは持っていないのだ。なぜならデカくて重いからだ。
「小さくて軽くて持ち出しやすいけど、iPhoneでは撮れない写真が撮れる」
そんなカメラが欲しかった。
小さくても高性能という矛盾(または、美学)
当たり前だが、iPhoneと、"ちゃんとした"カメラとでは、撮れる写真は違う。何がその差を生むかと言えば、センサーとレンズの違いだ。もっと乱暴に言ってしまえば、センサーとレンズの"大きさ"の違いだ。
綺麗な写真を撮りたいなら、大きなセンサーと大きなレンズを備えたカメラを使えばいい。この世界でデカくて重いものが高性能なのは、当然だ。
そういった原理原則に逆らう、「小さくても高性能」という矛盾(または美学)を実現しようという製品はどんな分野にも存在するもので、ご多分に漏れずカメラにもそういった製品がある。
その1つとしてGRがある。
なぜ GR III を選んだか
「小さくても高性能」というカメラは、GR以外にも存在する。例えば、ソニーのRX100などがそうだ。そういった競合製品がある中でなぜGR IIIを選んだのか。
「コンパクトなボディにAPS-Cサイズのセンサーを搭載しているから...」といったスペック的な理由ももちろんあるが、たぶんもっと感覚的な、製品としての「潔さ」みたいなものに惹かれたのが、GRを選んだ一番の理由だと考える。
なんだかちょっとかっこよく表現した感じがあるが、要は、「GRってツウっぽいよな」と思ったからだ。
実際どうだったのか
記事のタイトルにも書いているのでうすうす感づいている方もいると思うが、今私の手元にGRはすでに無い。手放してしまった。
手放してしまったということは、私には合わなかった、私の期待は外れたということだ。
GR III を手放した理由
── GRはたしかにiPhoneよりも綺麗な写真が撮れる。だけど、iPhoneと別に持っていくほどのものだろうか?
私が使っているiPhoneはいまだに8だが、奇しくもその背面カメラの焦点距離は、GRと同じ28mm(35mm換算)らしい。
大雑把に考えると、GRはiPhone 8と同じような画角の写真しか撮れない。そして、例えば晴れの日に風景の写真をパンフォーカスで撮るような場合は、両者の写りには(私にとっては)あまり大きな差があるように思えなかった。
もちろん、差がないと言うつもりはない。ディティールがまったく異なるし、暗いところでの撮影や、背景をボカすような写真を撮る場合はiPhoneではGRに太刀打ちできない。だが、その差のためにわざわざカメラという荷物1つを増やすか?という問いに対して、結局「iPhoneでいいじゃん」という結論に行き着いてしまった。
iPhone 8ですらそう思うのだから、画角の異なる複数のレンズを搭載していたり、ソフトウェア的に背景ボケを再現できるような現行のiPhoneだと、ますますそう思うのではないだろうか。
GRでないなら、何だったのか
写真専用機としてのGRは、私には単機能過ぎた。私に必要だったのは、GRよりもさらに多機能で、iPhoneとの棲み分けができるカメラだったのだろうか。
例えば、高倍率のズームレンズを搭載してさまざまな画角で撮影ができたりとか、ソフトウェアでは再現できないような綺麗なボケが得られる明るいレンズを備えているとか。
はたまた、EVFを備えていてファインダーを覗くという楽しみをもっていたりとか、専用のダイヤルでカメラらしい操作ができるとか。
しかし、そのような特徴を備えたカメラはより「カメラらしい」ものになっていき、私が重視していたはずの持ち出しやすさは失われていく。
そう考えると、私が必要としていたのは「小さくて高性能なカメラ」などではなく、単により新しいiPhoneだったのかもしれない。